MASUNO
このごろのもりまりこ

<ハンコ嫌い>

もうじゆうなんてこわくてこわくて
しょうがなかったから。
ふじゆうなぐらいたしかなりんかくに
ほんろうされたかったから。

だから、わたしはあんなにもめちゃくちゃな
嘘みたいなほんとのおじさんを
好きだったんだと思う。

いつだったか。
ぱーてーしょん、ちょっとした衝立のとなりでは、
いつしか怒声に成長してしまう危険をはらんだ
ぎりぎりいっぱい抑えた声がわたしの耳に聞こえてきた。
わたしは姿のみえない彼の顔がいまどんなだかわかる。
ぜったい、しかくい面構えに配置された薄いくちびるは
ひんまがっていて、眼はもうぜったい弾丸で、
シャリシャリ音のする、ぶるぞんに包まれた、
丸太みたいな腕は、頑に組み続けたままだろう。

その日。
ばーじょんあっぷしたこんぴゅーたーを
導入してみませんかと、リース会社の新人営業マンが
そこを訪れていた。

わたしの大好きな社長さんは、とにかく
<すんなり>であるとか<滞りなく>だとかとは
無縁な男なので。
案の定、ごねまくり。

『わしは、ダイエーで買い物しとるんとちゃうんや。
あんたの薦める製品とわしがええゆうたんとやったら
差額いくらなると思うねん。あんたな、お買得の意味
わかって使ってンのかぁ』
などと、まあ序の口モードで新人さんに軽いジャブを
放ち。

『ではそちらの製品の御契約書のこの箇所に
御印鑑などを押印していただき・・・』
と男が数々の難関を突破して汗水ながして
やっと辿り着こうとしていたその幸せの直前。

『あんた今、なにゆうた?』
『ですから、こちらの箇所に捺印していただきたいと』
『なんでや』
『いや、なんでと申されましても、そうしていただか
なければ、リース契約のですね・・・』
『あんたな、わしが今あんたの目の前で、月何ボずつか
払うたるゆうたばっかしやないか、それでええやろ。
なんでハンコまで押さんといかんねん』
『いやあ、そう申されましても、御印鑑をいただくという
決まりになっておりますから』
『ほんま、融通きかん会社やなあ。決まりってなんやぁ。
わしは押さへんで、ハンコ。だってそうやろ、わしが
このわしがやで〜あんたの目の前で男と男の約束した
ばっかりやないか。わしが払ういうたら何があっても
払うワいな。お前はわしンこと信用できんっちゅうんかっ。
このどアホッ!ちゃんと目あいとんのか〜』

もうあっぱれですよ。でも融通きかんのはあんたや〜と
誰も言えない。そしてわたしの耳には契約書らしきぺらぺらした
紙の擦れる音だけがシュッシュッといつまでも残っていて。

で、この後の新人営業マンのゆくえは。
もめにもめて。それでも、営業マンは歯を食いしばり。
弱々しいジャブを社長さんに打ち返し。
それを軽くいなした彼は、おもむろに、
『そいで、そのハンコっちゅうのは、実印か?』
と、桁外れに世間しらずの口を威風堂々ときき、
『もうしゃーないな』と社長さんはきびすを返し。
とある所、会計事務所かなんかに電話をして。
『・・・(中略)・・・でな、そういう訳のわからんこと
いう会社なんやけどな、今からそっちに営業の男よこす
さかいに来たら、ハンコ押してやってくれへんか。
あっ、言うとくけど、それ。実印やないで、認めやでぇ』

きっとこの後、わたしはこの若手営業マンに狙われるのでは
ないかとひやひやしていたのですが、どうやら無事でした。

わたしの大好きなとてつもなくりふじんなおじさんは、
ハンコが嫌い。だいきらい。
すきだとかきらいのまえにハンコなんかこの世にあること
じたいがおかしいのだと思ってる。
だってぜったいやくそくやぶらないとかたくじぶんに
ちかっているから。とくに男と男のそれはね。
この世で信じているのはじぶんだったから、じぶんが信用
しているじぶんのことを信用できないなんてこのわしに
ケンカ売ってるのとおなじだと。

そのときわたしは知ったのです。
ハンコはじぶんの代用品みたいなもので。
だから、じぶんである証はじぶんであればいいのだと。
それがままならなくてもそうありたいのだと。

そんな社長さんはもうすでにいのちの期限を
うすうす知っていたのでした。

たったのいちどでいいから。
どんなにささいなことでもいいから。
わたしはおとことおんなのやくそくをしゃちょうさんと
かわしてみたかったです。
ハンコなんかいらない。
ちいさいのにとてもたいせつすぎるぐらいのやくそくを。

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この間上京したとき青山ブックセンターに
  ゆきました。そこでもりまりこの
  第一歌集『ゼロ・ゼロ・ゼロ』
    (フーコー/星雲社)が、
相田みつをさんの隣にちょこんと座っている
のを発見しました。うれしかったです。
みなさん、どうぞお手に取って頂けたら
      幸いです!

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2000-03-17-FRI

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