伊藤まさこさんの「白いお店。」

彫金作家の
竹俣勇壱さんといっしょに
「白いアクセサリー」を
つくりました。
【その2】竹俣さんは、なぜ彫金の道へ?
伊藤
竹俣さんはいま、カトラリーなどの道具類をはじめ
いろいろなものをつくられているけれど、
そもそもは、アクセサリーをつくるひと。
そのあたりの「歴史」を
すこし伺ってもいいでしょうか。
竹俣
はい。もともとは、
ファッションジュエリーを作っていたんです。
二十歳のときそういう仕事をしたいと考え、
まず学校に行こうと思ったんですけれど、
いろんな先輩から「学校を出ても働くところがないぞ」
というアドバイスをもらいました。
それで、たまたま地元の金沢にあった
ジュエリー工房に弟子入りをしました。
そのまま、6年働いて、独立をしたんです。
伊藤
その工房では、どんなものを作っていたんですか?
竹俣
何でも、です。
本来のジュエリーって、デザインをする人と、
材料を仕入れる人、つくる人、売る人、
全部分かれてるんですよ。
でも僕が修業に入ったところは、
材料は材料屋さんから買いますけれど、
デザインから製作、販売まで
すべてを自分でやるスタイルでした。
伊藤
そこですべての技術を学んだ?
竹俣
はい。当時、ものすごく働きました。
コンビニでファッション誌を立ち読みして、
「いまは、こういうのが売れるのかもしれない」
みたいなものを調べて、つくってみたり。
いまから20年ぐらい前ですが、
シルバーブームがあったんですよ。
わりとハードなデザインの。
伊藤
はい。原宿で流行したみたいな、
すこしごつい感じのものですよね!
竹俣
インディアン・ジュエリーの影響を受けていたり。
じっさいぼくもアメリカでインディアンの村で、
1カ月ぐらい勉強しに行きました。
あるいはバリとかタイなどの東南アジアの国々で
アクセサリーを作ってる村に行き、
2週間ぐらい滞在して、教えてもらったり。
そんなことも、しましたよ。
それで世の中にある彫金の
アクセサリーをつくる技術を
ひととおり習得していきました。
修行先は「超絶技巧系」なんですね。
技術がすごくつくところでした。
伊藤
いまとは、ぜんぜんちがう!
竹俣
そうなんです。
自分の好きな物はもうちょっとシンプルなものだな、
って気付いたんですよ。
それで、自分の好きなデザインをやり始めました。
ところが、それが売れなかったんです!
なので、売れそうなデザインと、
売れなくても好きなデザインの両方を
作っていたんですけれど、
「そうか、ここにいたら、このままだ。
 自分の好きな物だけをつくっていくわけには
 いかないんだな‥‥」
という気持ちがだんだん強くなっていきました。
伊藤
なるほど、それで独立をしたんですね。
でもそういう仕事って、すぐに食べていくのは‥‥。
竹俣
はい、無理です。
しかも、飛び出すように出てしまったものだから、
資金も全然なくて。
伊藤
道具だけがある、というような?
竹俣
道具すら、なかったんですよ。
僕が持っていた金目のものというと、
輸入品のバイク1台だけでした。
それを、買ったバイク屋さんに持っていったら、
「そういう事情だったら」って、
とてもいい値段で買い取ってくれたんです。
そのお金で道具を買って、
6畳1間のアパートで仕事を始めました。

▲竹俣さんの現在の仕事机。とてもコンパクト。
伊藤
お店ではなくて、アパートで。
竹俣
はい。だからお客さんが来ません。
いろんなところに営業に回りましたけれど、
注文は全然こなくて、
洋服屋さんのアクセサリーのサイズ直しや修理、
そういうことばかり、しばらくやっていました。
そのうち口コミでお客さんが増えてきたんですが、
できあがったアクセサリーを渡す場所が
ファミレスや6畳1間のアパートではまずいですよね。
そこで犀川沿いの下流にあった潰れた喫茶店を借り、
友達と自分で修繕して、
工房件ショップをつくったんです。
それが2002年のことでした。

▲資料として集めているものも、展示している。
(つづきます)
2016-08-09-TUE
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
スタイリング:伊藤まさこ 撮影:有賀傑 ヘアメイク:廣瀬瑠美 モデル:満島みなみ