好評です!
ほぼ日のアプリあります。

logo_1101

2018-07-17

おしらせ

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・暑いし混むのだろうけれど、えいや行こうっと決意して、
 東京国立博物館の『縄文 一万年の美の鼓動』に行った。
 まず、暑いのはどうしょうもない。
 しかし、まったく混んでない、チケット売り場並ばない、
 入場口も並ばない、展示も近くでじっくり見てられる。
 人気ないのかよ、暑すぎるからかよ。
 世間は縄文をなめていらっしゃるのかとも思うけど、
 えいやと行ったぼくとしては至福の時間が過ごせたよ。

 みんな、縄文というと「火焔型土器」を想像してるだろ。
 火焔と言えば、燃え盛る炎だもんね。
 しかもなまじっか岡本太郎画伯が目の玉でかくして
 「縄文の芸術は!」とか説いてるイメージもあるから、
 情熱だとか爆発だとかを想像しちゃうんだよね。
 ぼくも、ちょっとそうでした。
 でも、そういう感じはちがっていたんだ。
 だいたい岡本太郎さんも縄文土器にふれて感じたのは、
 「人間性への根源的感動であり、信頼感であった」
 と言っているわけで、火焔と名付けられていたかたち以上に
 つくった人のこころや手の動きが見えていたのだと思う。

 それは、会場に入って最初に目にする縄文草創期の
 「微隆起線文土器」で、すっと伝わってくる。
 繊細という価値観は、ずっと後世のものだから言えない。
 しかし、勢いにまかせて荒々しくではなく、
 丁寧に時間の凹凸をなぞるように生み出した土の器だ。
 これは大事に使われたのだろうなぁと想像ができる。
 「人がつくって、人がつかう」ということの真剣さ、
 それはつくる人のいのちが土器に写され、
 つかう人のいのちが土器に乗せられるということだ。
 火焔型土器は、そのずっと後に現れる様式のひとつだ。
 おそらく、ぼくの想像ではこの時期になると、
 彫刻的な意味を持つ土偶をつくるこころと、
 暮らしに使う器をつくる気持ちが交差したのではないか、
 というふうにも思える。
 いや、話せば長くなりそうなので、唐突にまとめに入る。

 昔の時代に生きた人びとよりも、なにごとにつけ、
 いまを生きている人間は進化していると思いこみやすい。
 ほんとに、そんなことを考えることこそが、まぬけだぜ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
先に生まれた人には「方法の蓄積」がなかっただけなのさ。


ここ1週間のほぼ日を見る コンテンツ一覧を見る



カート